神仏の子である痕跡
わたしたちは、物質のみで作られたモノではなく、神仏から分かれてきた存在です
肉体に宿っている間には、そのことに気づかないでいます
物質より作られた肉体器官から感じ取られる情報では、その真実を把握することが難しいということもでもあるでしょう
ですが、地上に生きている私たちでも、神仏より作られた子である痕跡を見ることができます
その痕跡について、孟子の四端説を参考に見ていきたいと思います
孟子というのは、古い中国の儒学者で、有名な孔子の後に出てきて、儒教を興隆させた人物です
孟子は、人間の心には四端という、四つの兆しがあると言います
四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)を言います
「惻隠」というのは、他人の不幸な姿などを見て、いたたまれなく思う心です
みなさんも、例えば震災などで被災された方々を見て、いたたまれなく思うでしょう
事件や事故にあった人を見て、可哀そうだと思うはずです
人には、そうした自分以外の他人を見て、哀れに思ったり、いたましく思う心があります
つぎに「羞悪」は、不正や悪を憎む心、恥を知る心を言います
人は悪いことをするのはよくないことだという思いを持っています
たとえばお金が欲しいからと言って、自分より力の弱いご老人や子供から、暴力で奪うのは恥ずかしいことだ、よくないことだと思うでしょう
そして悪をなす人間を許せないと思うでしょう
そのように心では思っていても、頭で食べていかなくてはならないからなど、理屈で心の声をふさぐことで悪はなせます
つぎに「辞譲」は、譲ってへりくだる心をいいます
人間がただの物質で出来た存在であり、本能で自己保存欲に生きているのなら、自分の利益は置いて、人に譲ったりする心は出てこないでしょう
自分の事は脇に置いて、人に譲ったり、へりくだる思いを持ています
そして「是非」とは、正しいこととまちがっていることを判断する能力を言います
人は過去を振りかえって、自分の思いや行いに、誇りに思う時もありますし、逆に恥ずかしく思うこともあるでしょう
そのように、誰に教わることもなく、正しいことか、間違っていることかを判断します
そして人の行いにも、正誤の判断が出来るでしょう
孟子は、上記のような四つの心の働きを人が持っていることを指摘しました
さらに付け加えるとするならば、人には向上し人の役に立ちたいという思いがあります
たとえば将来お医者さんになって、病気の人を治したいと思い、一生懸命に勉強することもあるでしょう
あるいは、社会に役立つ仕事がしたいと、一生懸命に研究したり働いたりすることもあります
そのように、人には向上して、人の役に立つのはよいことだという思いがあります
これは仏教的には菩提心ともいえるものでしょう
菩提心というのは、悟りを求める気持ちと、人々を救いたいとする思いを言います
人の心に菩提心があることこそ、人が仏子である証拠であるでしょう
もうひとつは、人は無償の愛を持っているということです
異性への愛や、親子の愛は、本能として解釈することも可能でしょう
ですが、人は利害関係のない人に対しても、無償の愛を持っています
たとえば、震災に合われた方に、募金をしたり、物資を送ったり、ボランティア活動された方もいるでしょう
直接の行動は無くとも、なにかしてあげたいと思う人も多いでしょう
それは、「いま募金しておけば、いずれ自分らが被災したときには助けてくれるだろう」という考えでしたことではないはずです
純粋に利害を超えて、無償の愛の思いから出てきています
そのように、人は誰に教わらずとも、無償の愛を持っています
それが人間は神仏の子である痕跡としてあるものです
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